LIVE HISTORY
   15年間のライブの歴史 part 1

 
  開店当時の芦別では間違ってもライブハウスが存続できる要素はひとつもなかった。
店を始めた頃はお客さん達とギターを弾いて騒ぐくらいが関の山で その楽しみは 今も続いている。

初めてのステージ
 店を始めて半年ほどした1984年、千葉さんという元バンドマンのお客さんがやってきて、ここで週1〜2回ほどライブをやらせてくれないか、といわれる。ギャラは、いくらでもいいというので、お願いするが、結局ボーカルがいないので、一緒にやろうと言うことになり、初めてお客さんの前で歌う。
 選曲は、自分達が決め、基本的にリクエストは無しというスタイルで半年ほどライブをやる。
カラオケのはやり始めた頃だったので、なかなか定着しなかったが、今思うと貴重な体験をしたと思う。曲は「スタンドバイミー」「ホンキートンクウイメン」ディランの「ゴーイングゴーイングゴーン」なんかをやっていた。

高橋忠志 
 初めて入場料を集めて行ったライブはたぶん1985年頃、芦別に住む先輩達が結成していた親睦団体「30会」(サンマルかい)に頼まれて開いた「高橋忠志」という人の「自転車ライブ」だったと思う。
 北海道を自転車で廻りながら、ライブを行うという、確か名古屋あたりの人で、典型的なフォークソングという感じの人だった。
10坪程度の店内に、40人くらいは、入ったような気がする。
その時は、主催者がサンマル会だったので、貸し切りで、赤字にもならず無事済んだ。
 しかし、その事によって、自分の店でもライブが可能なのではないかと、よからぬ事を、思い始める。

「リトルプレゼントコンサート フォー アフリカ」 
 その次の年くらいに、「ウィーアーザワールド」に刺激を受けた友人の呼びかけで「アフリカ難民救済コンサート」北の京(当時の芦別レジャーランド)の観音像のあたりで開催するが、その時は、スタッフがほぼ全員、同級生で未経験のため、理想と現実のちがいというものをいやというほど痛感する。近隣のアマチュアバンド13組を集めた野外ライブでは、なんとか赤字も出さず、いくらかの募金を、ユニセフを通じて送ることができた。が、スタッフの口から出た言葉は、「もう二度とやりたくない」だった。その時出演していたバンドの中には、今の「M.C.A.T」が、アキオワンダーという名前で出演していた。写真は、場違いなほど大きなステージで、インタビューを受ける伊藤忠司
 
稲村一志 
 その直後、札幌在住のミュージシャン、稲村一志のライブを知り合いと一緒に主催する。
柔道や剣道の道場
「芦別武道館」(笑)の二階のホールでその当時、流行っていた酎ハイパーティー形式で行う。その時の模様を、NHK教育テレビで放映するが、ディランのシーンは、ごくわずかだった。 (父親は親戚に電話をしていたらしい。)
 
友川かずき 
 芦別で現代俳句を書いている正信寺の住職 西川徹郎さんの頼みで、友川かずきの正信寺ライブのPAを引き受けるついでに、次の日、他にライブができる場所はないかと聞かれたが結局見つからず、ディランでやることとなる。
 友川かずきは中学生の頃、「11PM」かなにかで、とんでもない東北なまりで「生きているって言ってみろ」と叫んでいる姿を見てから、気になる存在ではあったのですかさずOKする。
 正信寺では、ライブの間中ウイスキーの水割りを飲み続け、最後にはいすから滑り落ちて、その日のライブは終わった。
 次の日の、ディランのライブは案の定、ひどい二日酔いで、お客が入ってきているのにカウンターに座ったきり、「今日は、気乗りがしねえ。」などといい、なかなか演奏を始めようとはしない。 おまけに「あんた一曲やってくれや。」といわれて、どうしようもなく、ギターの弾き語りで三曲ほど歌うと「おお!いいぞ。いいぞ。調子が出てきたから、もう一曲頼む。」といわれ、さらにもう一曲オリジナルを歌う。
その後、調子の出てきた友川さんは、さっきとはうって変わって、素晴らしいステージを展開する。もちろん、水割りを飲みながら....

 そのお礼だったか忘れたが、東京に帰った後、一枚の絵を送ってくれる。

 神様おねがい 
 その後、少しずつ音楽を好きな人間が集まりだし、自分でもバンドを始める。お客さん達と一緒に、1987年、芦別神社拝礼殿で「ディラン4周年記念ライブ 神様おねがい」を開催。札幌や旭川からもバンドを集め、120人ほどの人間を集める。
その時のスタッフ達と「GUMBO」の母体となる
「スタージェネレーション」という団体を結成する。
動機は、ただ
文化連盟に加盟すれば中ホールの使用料が、免除されるからという理由だけだった。
 その頃、感じたことはかえって同じバンドをやっている人間同士の方が意見の対立が激しく、うまく行かないことが多いということだった。
 音楽に対する考え方のちがいというものは、まったく始末の悪いモノだった。

 子供バンド
  とにかく、この街にとっても自分にとっても、初めての試みなので、何をやってもやらなくてもすべてが未知の世界で、試行錯誤の連続だった。
ただ、その頃の自分を支えていたのは、自分が感動したものは他人も必ず感動するはずにちがいない、という根拠のない自信だけだったようなきがする。

 1988年4月、時々通っていた旭川の、今はなきライブハウス「ブーフーウー」の紹介で、「子供バンド」のライブを決定。
 場所は、おなじみの芦別神社拝礼殿、自分もバンドで前座として出演するが、プロの底力のすごさに圧倒され、大感激する。
この頃から少しずつ、プロデュースのおもしろさも感じ始める。

石塚俊明
 友川かずきの一件ですっかり親しくおつきあいしていた、前衛俳句の巨人、西川徹郎さんから、その年の夏、またライブの相談を受けた。
「福島泰樹」という短歌絶叫コンサートをやっている人間がいて、彼のコンサートを芦別でもやりたいというのだ。
 昨年、芦別の中ホールで一度友川かずきとジョイントをやったというのだが、今度は福島泰樹だけでやりたいという。
メンバーを聞いて驚いた。ドラムスに元「頭脳警察」の石塚俊明が来るというのだ。
 「頭脳警察」は、いわゆる日本のロックの黎明期において、数多くの伝説を作った幻のバンドである。
 中学校時代、日本のロックバンドにこっていた時期があり、「村八分」「サンハウス」「外道」と並んでもっとも聞き込んでいたバンドが「頭脳警察」だった。
 一枚目、二枚目が発売禁止となり、やっと発売できた「サード」は、「ふざけるんじゅねえよ」をはじめとして、衝撃的な曲が並んでいた。
 最後のアルバム「悪たれ小僧」まですべてのアルバムは手に入れていた。
 ある時友人と「頭脳警察」のいちばん「頭脳警察」らしいアナーキーな部分は、本当はドラムのトシなんだ。という話で盛り上がったことがあった。
一見フロントマンのパンタが、過激だと思われているようだが、本当はトシの方が過激で前衛的なのだ。
 そのトシが芦別にやって来るというのだ。
即OKをさせてもらったことはいうまでもない。

 一緒にやってきたのは、尺八、横笛の菊池雅史、ピアノ、アコーディオンの永畑雅人などの強者たちだった。
 ステージは、中原中也の詩や福島泰樹の短歌などをバックの演奏に合わせ、朗読するというモノだった。
 短歌絶叫というだけあり、最後の方は朗読というよりは叫びに近いものであった。
 個性的で幻想的なステージが終わり、打ち上げの席でトシさんの横に座り、「中学生の頃からのファンだったんですよ。」というと「中学生から頭脳警察きいてるなんて、ただの不良じゃねえな。」なんていわれてしまった。
 今度はぜひディランでライブをやってほしいと頼むと、「じゃあ、来年でも遊びに行くよ。」といわれて大いに感激する。
 また尺八の菊池さんは、チャールズ皇太子の前で御前演奏をやったというぐらいの人で、今までの和楽器に対するイメージがすっかり変わってしまった。
 ピアノの永畑雅人さんは、小山卓治のバックをしていた「CONKS」のメンバーで、時には「ロケットマツ」という名前でもあちこちで活躍している。
 高田渡さんの「渡」というアルバムでもアコーディオンを弾いていたし、この間もNHKのフォークソング大全集で友川かずきのバックでアコーディオンを弾いていた。
 全員、めちゃくちゃ酒が強く、ぐでんぐでんになるまで音楽の話をしながら楽しい夜は過ぎていった。

HEAT UP '89
 1989年の春、店に来たお客の中の一人が、「何か野外ででっかいイベントをやりましょうよ。」と簡単にいうので「むかし、アフリカ救済コンサートをやったあと、スタッフはもう二度とやりたくないといっていたんだぞ。そんな簡単なもんじゃないんだよ。」というと「何でも手伝いますよ。」というので「手伝いは集めようと思えばいくらでも集まるんだ。大事なのは共犯者だ。」といってやった。
 そうすると酒の勢いも手伝って、「二人で死ぬ気でやりましょうよ。
伊藤ちゅうじともあろうものが、ずいぶん弱気ですよね。」という口車に乗せられて、また野外イベントの計画を立て始めてしまった。

 場所は、前回の「レジャーランド」が使えないので、上芦別公園に決定する。
公園の使用許可を取るために、いつも「公園祭り」を主催している上芦別商店会にお願いに行くと、このイベントにひとくち乗せてほしいという。
願ってもないことなので即OK!! 
ついでに賞金を出してコンテスト形式にすることにする。

 あちこちからアマチュアバンドを集め、晴天の元忙しくも楽しいコンテストだった。
グランプリは隣町の
「ダウンアップ」というバンド。
 このときは、市内の高校からこのライブを見に行くものに対して、それなりの処分をするという校内のお達しがあり、学生たちがびびってほとんど見に来れなかった。もちろん出演もだめ。
 そのことで後ほど学校側と商店会が大もめにもめるのだが、終わってしまったこっちにとっては「勝手にやってくれ。」という感じだった。
 言い出しっぺのお客に「来年はどうする?」ときくと答えはやはり、「主催は二度とやりたくない。」だった。

上芦別時代
 ちょうどその頃、始めたバンド「joker」に夢中になり、どこか練習場はないかと探しているうち、店から車で10分ほどいった、上芦別というところに大きな納屋を見つける。大家を捜して貸して欲しいというと、隣の家に住んでくれるならいいということで、見に行ってみると、それほど古くもない家なので、ついでにOKする。
 そこは古い農家にありがちの、婚礼まで自分の家でできるほどの大きさの家で、今風にいえば、7LDKの家だった。
 家賃は1万5千円で良いというところを、あまりの広さに圧倒され、自分の方から、2万円にして下さいと申し出た。
 その納屋の練習場で、自分達のバンドを始め、スタージェネレーションの連中、地元の高校生のバンドなどが練習をする。
 そのかたわら、赤平、滝川、旭川などの近隣のイベントや、ライブハウスなどでライブを重ねる。
 しかし、いくらいけないといっても、高校生達の喫煙はおさまらず、警察の新たな巡回地域となる。
 月々ひとバンド500円の使用料も払わないバンドも出てくる始末で、教師の苦労がわかったような気がした。
 この頃、音楽性の違いと人間性の違いから、スタージェネレーションの連中と次第に、つきあいが無くなってゆく。
 自分としては、音楽をどうしてもサークル的なモノとして、とらえられなくなってきた時期だった。
 それは、きっと昔から聞いていた、ロックのあの有名な一言「ロックとは、ジャンルではなく、生き方そのものだ」ということばのせいだと思う。
 この上芦別時代から、どんどん加速度的に、ライブにのめり込んでゆくこととなる。

PART 2に続く